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「愛知県美術館:棟方志功 祈りと旅展〜祈り〜」 [展覧会のはなし]

2011年8月13日

午前中に刈谷市に出かけて向かった先は「刈谷市美術館」で
開催されていた「安野光雅の絵本展」
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2012-03-11
※注:やっと先日書き上げたレポの分です。
(お恥ずかしい話…年越しのレポートです)

こちらで様々な原画を鑑賞して
私的にはここで充分満足だったのですが…

「せっかく有給休暇を取ったのだから…
 ここはもうひとつ、何か観に行こうかと」

世間の大企業では既にお盆休みにも入っていたようですが
私のように14日から休みという方々が圧倒的。
なので、美術館も比較的ゆったり鑑賞できるかなと予想したのです。

「とはいえ、夏休みなので…家族連れでの来場も多い訳ですが」

企画展の内容によりけりですが…
そういう意味では安野光雅の絵本展などはファミリー層が
圧倒的でしたからね。

で、刈谷駅周辺で昼食を取り、向かった先は

「愛知県美術館」

こちらでは、この頃、「棟方志功 祈りと旅」という
企画展が開催されていました。

しかし…もし震災が起きなければ…
この企画展は全く違ったものになっていました。

というのも、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
3月11日の東日本大震災の影響で、福島第一原発が
制御不能となり、水素爆発が起きたことから
放射能が飛散することに…
余震も相次ぐ現状に震災や放射能の汚染を危惧した
貸出主である美術館やその作品を管理する保険会社などが難色を示し
結果として、海外からやってくるはずだった大回顧展のための作品が
搬出されず、企画展自体が中止になったケースがいくつかありました。

愛知県では豊田市美術館の「モランディ展」
そしてもうひとつがここ、愛知県美術館で
開催される予定だった、ロシアの「プーシキン美術館展」でした。

これを知ったのはたしか、
桜も散ってしまった4月の頃だったと思います。

確かに私たちですら、あの津波の映像を何度もテレビのモニタ越しに目にし
見えない、そして情報も僅かしかない原発の状況に不安を覚えていたので
貸し出す側の美術館が難色を示すのも無理もないなと思いつつ
そうとはいえ…今のこの時期だからこそ
日本で鑑賞することができない作品の数々を観ることで
平常心を戻したいと思っていました。

それからしばらくしてのこと…名古屋駅の地下を歩いていると
何とも力強くそれでいて荘厳でたおやかな女性の顔を大胆に
使ったポスターが目に飛び込んできました。

棟方志功01.jpg

それが、この「棟方志功 祈りと旅」展。
ロシアの「プーシキン美術館展」の展覧会中止を受け
東北復興支援特別企画と銘打って、開催が決まった展覧会でした。

「棟方志功…なるほど。東北出身の作家だものね。
 そういえば私も一度、大原美術館で仏様の大作を観たけどなぁ…」

と、最初はそれぐらいの感覚で…
結局、7月に入っても…足が向かず…
気がつけば8月中旬にさしかかっていました。

でも気になるのは、通勤ルートに掲示してある
あのポスターの女性の顔。
出かけようと思ったきっかけは、その頭に残像のように残る
あの女性の顔が、私の中での棟方志功とはあまり結びつかなかったことから。
「やっぱり会場に行ったらいろいろな作品見る事できるだろうな…」というのと
決定打になったのは、twitterでこの展覧会を鑑賞した人達のツイートの感想から。

とにかく、皆、口々に行って良かったというようなツイート。

「東北復興支援特別企画だし…
 これだけ棟方志功の作品を一度に見る機会もないし…
 行くべきだろうな」と。

で、ようやく足を運んだのが…この8月13日でした。

この日、名古屋は36.7度という酷暑とも呼べる
気温をたたき出した日で…
私も刈谷に出かけた時点で500mlのペットボトルを空にし
そして栄に到着してもう1本買い求めるほど…

「いつもなら軽々、2つほど美術館などハシゴする私も
 さすがにこの日はしんどかった」

とはいえ、美術館内に入ってしまえばなんてことない
空調は効いており快適そのもの。
じっくりと鑑賞してきました。

前置きが長くなりました。昨年の展覧会のことではありますが
あらためて作品を鑑賞していくつか印象に残った部分もありましたので
手元のメモをもとに書いていこうと思います。

さて、会場に入ると…入口にはこんなものが…

棟方志功02.jpg
「へぇ…タブロイドのようなチラシ」

より棟方氏のことを知ってもらおうという
美術館の学芸員さんの心遣いが伝わってきそうな
そんな印刷物です。
こちらには作品を鑑賞するポイントは
展示作品がリストとなって掲載されていました。

これを最初に観て驚いたのが…

「あれ?板画って書いてあるけど…版画じゃなくて?」

そうなんです。
棟方氏が制作する際に使われた手法は木版画。
板の声を聞いて、木の魂を掘り起こす…
そんな姿勢で制作に取り組んでいた棟方氏は
昭和17年(1942年)より、版画を「板画」と記すことにしたそうです。

「覚えておこう…」

今回の展覧会は「祈りと旅」というテーマで展開されていますが
会場内のフロアは作品の特徴ごとに
「祈り」「津軽」「文人画家の多彩な芸業」「旅と文学」というように
様々なテーマで分けられていました。
そして、フロアを歩き始め最初に足を踏み入れたテーマは
「祈り」
そして、私の目に飛び込んできたのは…

「あ…あの女性の顔」

そう、あのポスターなどの広告媒体に使われていた作品。


棟方志功03.jpg
※図録に掲載されていたものを撮影しました。

「弁財天妃の柵」(昭和39年:1964年)

なるほど…弁財天でしたか…
日本では神道の神とも見なされ
「七福神」の一員でもある弁財天。

私の中の棟方志功のイメージって…
ダイナミックな板画の…仏様のイメージで
「こうした、たおやかな女性で、
 かつ彩色というのが…結構意外だったのですよ」

そう、木版されたところに色も付いているのです。

実はこの作品。
棟方氏を代表する作風の作品だそうで
木版された作品に彩色するのは、
昭和11年に制作される「大和し美し」の頃からです。
※これについてはまた後ほどご紹介します。

棟方氏の中では、女性は女神のような存在で
女性に対する尊敬の念も高かったそう。
その背景には自身を育てた母、そして結婚後、
寄り添い、支えてくれたチヤ夫人の存在があります。
そんな彼女達を含め、全ての女性達への尊敬の念が
この作品には凝縮されているとのこと。

「だからか…とても荘厳でありながら、優しさもこもったあの表情…
 確かに、母のような雰囲気ですね」

女性の雰囲気の謎は解けたいのですが…

「作品名にある『柵』って何?」

これにもきちんと意味がありまして…
棟方氏は、四国巡礼の方々が各寺に願掛けの印札を
ひとつひとつ納めていくということにたとえて
自分の人生は、作品制作をひとつ、ひとつ念願をかけて
柵のように、ひとつひとつ一柵ずつ、
打ち込み際限なく続けて行く…そういう意味を込めて
「柵」と名付けているとのこと。

「深い意味なんですね」

この後も、様々な柵を垣間みる事ができそうですね。

さて、続いて見えるのは…

棟方志功04.jpg
※図録に掲載されていたものを撮影しました。

「二菩薩釈迦十大弟子」(昭和14年:1939年)
制作年から分かるように、戦前に制作された作品。
モノクロのトーンで構成されたこのスタイルは
戦前の作品の特徴であります。
「あぁ、私の中の棟方氏の作品、まさにこういうのなんですよね」
面白いなと思ったのが、足の部分が
白抜きになっていたり、黒ベタになっていたりと…
「リズム良く、交互に並んでいる訳です」
棟方氏は自伝では
「無心で制作に没頭するうちにそうなった」
と言われているそうですが
残された下絵等では、実は綿密な構成を練っていたそう。
「こうした作品だと1つ取ってもその完成度を求められるけど
 全体的なバランスというのも重要だものね」
実は戦災で二菩薩の版木が焼失してしまうのですが、
昭和23年に改めて彫られて復活しています。
ちなみにこちらの作品、屏風に仕立てられたものですが
昭和30年には他の作品と共に出品したサンパウロ・ビエンナーレで
版画部門でグランプリを受賞したことで大変注目を浴びた作品でもあります。

続いて目に飛び込んできたのは…

棟方志功05.jpg
※図録に掲載されていたものを撮影しました。

「華狩頌板壁画」(昭和29年:1954年)
タイトルで「狩」という文字が入っており
画面全体からも非常にスピード感があふれているのですが
生々しいものではなく、何かこちらに暖かい風を届けてくれそうな
そんな雰囲気にはやはり理由がありました。
中国の壁画よりインスピレーションを得たこの作品。
戦前より、棟方氏と親交があった
写真家の坂本万七が、中国の高句麗遺跡のひとつである
舞踊塚の壁画「狩猟図」を撮影し、
約2メートルほどに引き延ばした写真を贈ったことから
棟方氏はそれを自宅に飾っていたのだそう。
そこから、棟方氏の朗らかな心と融合しこの作品が生まれます。
「花を狩るこころおもいで板画しました。
 けものを狩るには、弓とか鉄砲を持たない、
 心で花を狩るという構図で仕事をした」
とのこと。

モノクロの画面ながら、こうして眺めていると
華の狩人達のまわりを舞う花々から
じんわりと色が滲み出そうな
そんな雰囲気すら漂わせていきます。
そんな花々に満ちあふれた画面には
平和という二文字も見え隠れします。

事実、こちらの作品は、
海外でも評価が高く、世界の多くの美術館で
所蔵されている作品でもあります。

「言葉や国境を越えて伝わるものがたくさんありそう」

嬉しそうな笑顔を浮かべる棟方氏が
画面を通して伝わってもきた、そんな作品でした。

そして次に目にしたのは…

棟方志功06.jpg
※図録に掲載されていたものを撮影しました。

「大和し美し」(昭和11年:1936年/昭和14年:1939年)
いわば、棟方氏の人生の転機にもあたる作品ではないでしょうか?
1926年(大正15年)に、国画会に木版画作品を出品されていた
後に川上澄生の代表作となる「初夏の風」を目にし
「板画こそ、日本が世界に全きを示せる仕事」と
悟り、板画への道を模索しはじめた棟方氏。
1934年(昭和9年)
これまでになかった試みを
と思い日本の伝統的な書画のスタイルであった
「絵巻」を版板画によって制作しようと
考えていた時に出会ったのが、
「古事記」に登場する倭建命(やまとたけるのみこと)の一代記を
綴った佐藤一英氏の詩。
(実はこの佐藤一英氏、愛知県一宮市萩原町出身で、
 市内の小・中学校、木曽川高校の校歌の作詞もしていたお方)
その詩に棟方氏が絵を合わせたものがこちらの作品。

あの柳宗悦氏に評価されたことにより
日本民藝館の所蔵となります。

それまでの経緯については
非常に興味深いエピソードがあるので
ご紹介しておきます。

実は、この「大和し美し」は長編詩になるのですが
そこは棟方氏…全文を20枚の版木に彫り、22柵の
大作板画巻に仕上げ、4面の額に入れ
昭和11年(1936年)の国画会第11回展に出品するのですが…
ここで予想外のことが発生。

「大きすぎるので全作品を展示を拒否される」

一生懸命作った作品であることはもちろん、
そもそも、それも全部を展示しないと
詩の意味がない。
もちろんそれを強く思っていたのは
制作した本人である棟方氏。
しかし拒否されてしまったのだから…それはどうにもならないこと。
途方にくれた棟方氏に

「国画会の陶芸部の審査員をつとめていた浜田庄司が偶然通りかかる」

で、事情を聞いた浜田氏は、同じく審査員だった柳宗悦氏を連れて来て
版画部に掛け合い、全作品の展示を認めさせたという
エピソードがあったのだとか。

「作品に圧倒されたというか…引き寄せられたというか…
 いてもたってもいられず、浜田氏も柳氏も掛け合ったんでしょうね」

まさに棟方作品のパワー炸裂。

しかし、そのパワー、この展示だけで終わりません。
当時、日本民藝館を建設中だった柳氏は
これらの作品を買い取る約束をしたのです。

棟方にすれば、全作品を展示されるだけでなく
その作品が柳氏の目に止まり買い取ってもらえるという
なんとも凄い展開になってしまったのです。
作品だけでなく、この出来事は、民藝運動を行っていた
柳氏と浜田氏と出会うこととなり、さらには2人を通して
河井寛次郎氏との出会いも生まれる訳です。

「作品自体も劇的だけども…
 棟方自身も劇的だった訳よね…」

さて、最初に観た「弁財天妃の柵」にあった彩色。
その彩色の制作スタイルはこの「大和し美し」から
始まったとのことなのですが…ちょっと違うのは…

「彩色してある作品の中に
 刷り色である墨の色が…部分的に淡いというか…
 肝心の登場人物の服装等がまるで霧に包まれているかのよう」

どうして?

こちらの作品、全作品のうち本来は3つのタイプの表現技法があり
1つめは墨一色の作品
2つめは紙の裏から彩色したもの
3つめは紙の表から彩色したもの
今回展示されたのは、3つめの技法。表から彩色したもの。

「だからちょっと霞がかっているように見えたのね」

でも、この後、裏からの彩色になったきっかけは?

「濃い不透明な顔料を板画の上から塗ると板の線が
 埋もれて見えなくなるので、
 裏からの彩色をアドバイスしたのが、柳宗悦氏」

元々、裏彩色は、仏画や日本画で使われる技法。
なるほど…多くの美術品に造詣が深い柳氏は、
棟方氏のその後の裏彩色の技法の道しるべ役にもなった訳ですね。

さて、今回の展覧会で注目すべき作品が
フロアを歩いていると見えてきました。

棟方志功07.jpg
※図録に掲載されていたものを一部撮影しました。

それは…全長26メートルの大作、
「大世界の柵」(昭和38年:1963年/昭和44年:1969年)
こちらの作品は、「乾(けん)の柵」と「坤(こん)の柵」の
2つのテーマからなる、それぞれ72枚の版木で制作された
棟方氏最大の作品。

とにかくまずその大きさに圧倒されます。

「まさに大世界」

その大世界は当初、何のために制作されかといえば…
「坤(こん)の柵」は昭和38年(1963年)にオープンした
倉敷国際ホテルのために制作されたもの。

※詳しくはホテルのHPにも掲載されているのでそちらをご覧ください。
http://www.kurashiki-kokusai-hotel.co.jp/history/history.html

そして、「乾(けん)の柵」は、昭和44年(1969年)に開催される
大阪万国博覧会野日本民藝館のために旧作の版木72枚の裏面を使用して
制作したものなのだとか。

この大作…見ればみるほどあの作品に見えてくるのは…

「モノクロの世界だから?」

その作品とは…

「ピカソのゲルニカ」

実は…棟方氏は昭和34年(1959年)に1年ほどかけて
アメリカ、ヨーロッパを旅したといいます。
その際に特に刺激を受けた作品というのが
当時ニューヨーク近代美術館で展示されていた
ピカソのゲルニカだったのだとか。
(注:現在はスペインへ返還され、マドリードにある)
で、特にこの影響を受けているのが、
先に制作した「坤(こん)の柵」という訳。

「気のせいじゃなかったのね…」

しかし、ピカソのゲルニカは戦争への怒りから生まれ
死と恐怖が色濃く感じられ絶望すら感じられる作品になっているが
棟方氏の作品は、女性達が、子ども達を産み、育てる姿があるため
逆に生命を讃える、非常に希望あふれる作品になっています。

棟方志功08.jpg
※図録に掲載されていたものの一部を撮影しました。

「そこはやはり、棟方氏の人柄かな…」

生命って凄いんだよ。
こんな72枚の版木の中には
おさまりきらないぐらいにね。

そんな風に棟方氏より笑顔で語りかけられている気もした作品でした。


そして…柳宗悦氏より導かれた裏彩色の技法を
自らのものにする過程を垣間みる事ができそうな作品。

棟方志功09.jpg
※図録に掲載されていたものを撮影しました。

「鐘渓頌」(昭和20年:1945年)
さきほど国画会が縁で昭和11年(1936年)4月に
柳氏と浜田氏、そして河井寛次郎氏と出会う棟方氏。

その出会った翌月にその3人が棟方氏の自宅を訪れた際
棟方氏は「京都の仏像が観たい」と話しをするのです。
「ならば私が案内しよう」と案内役に手を挙げたのが
河井寛次郎氏。
その翌日に、なんと棟方を連れて京都の自宅へ。

「展開、早いね」

でも、それだけ棟方氏の才能を認めていたから
河井氏も、少しでも早く見せてあげたかったのでしょうね。

そして京都で約1ヶ月滞在する間に
棟方氏は、河井氏より禅書「碧厳録(へきがんろく)」の
手ほどきを受け、京都を巡ったとのこと。

そんな経緯もあって、河井氏の持つ登り窯の名前である
「鐘渓窯」の名にちなみ、尊敬する河井氏への感謝と賛美を
形にしたのが、こちらの「鐘渓頌」という訳。

「いい話だなぁ…」

そういう話を聞くと、この作品の色彩も
とても味わい深く感じますね。
その裏彩色の技法の開拓に成功したことを
後押しするかのように
こちらの作品から12柵選んで他の作品と共に出品した
昭和31年のヴェネチア・ビエンナーレの版画部門でグランプリを受賞。
ますます棟方の作風は円熟味を増していく訳ですね。

「後期の作品も楽しみですね」

と、後半の分を書こうとしましたが
思いのほか長くなってしまったので今日はこのへんで…
また時間をみて後半を書いていこうと思います。
気長にお待ちください。
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菜の花

>佐藤一英氏、愛知県一宮市萩原町出身で、
 市内の小・中学校、木曽川高校の校歌の作詞もしていたお方
ハイ。ワタシ、小・中・高と、校歌の作詞はすべてこの方です。
この作品だか、を、昔、一宮市博物館の展示で、観たことがあるような(?)。
(以前、ユキヲさんのブログか何かに書き込んだか、どうかも定かではないです。)
棟方氏の『柵』の女性の生命力に対する「賛歌」のようなものは、
心強いですね。
ブログにまとめていただきありがとうございます!


by 菜の花 (2012-03-25 21:43) 

ユキヲ

>菜の花さんへ
こちらにもコメントありがとうございます。

おっと、身近な方で
佐藤一英氏が作詞された校歌を歌われていた方が…
私も今回、鑑賞のまとめを書いていて意外にも
一宮とゆかりのある方とつながるとは…驚きでした。

昨年は震災や原発のことで心痛めることが多い1年だったので
この棟方志功の展覧会では非常に心癒されたというか…
エネルギーをいただけたような気がします。
by ユキヲ (2012-03-31 21:04) 

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