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「関ヶ原2019春一番フォーラム」歴史講演会「石田三成からみた関ヶ原合戦」 [芸術etcのはなし]

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お久しぶりです。ユキヲです。
先日、3/24(日)に関ヶ原ふれあいセンターで開催された
「関ヶ原2019春一番フォーラム」で静岡大学名誉教授で
歴史秘話ヒストリアなどでも解説としても活躍されている小和田哲男先生、
そして大河ドラマ「真田丸」での直江兼続役で注目された
俳優・村上新悟さんをお招きしてのトークショーが
開催されるとのことで出かけてみました。

静岡大学名誉教授である小和田哲男先生は、
大河ドラマ「軍師官兵衛」など
様々なドラマの時代考証もされている戦国時代史がご専門。
今回は、石田三成の視点から関ヶ原合戦を読み解くと題して、
歴史講演会「石田三成からみた関ヶ原合戦」という1時間半のトークからスタート。

「歴史は勝者から見ることが多いが、今回は敗者の石田三成からの目線で」
と今回のテーマに沿って語られる小和田先生。先生は学生時代の頃から、
ここ関ヶ原に足を運んでは戦国時代に思いを馳せながら歩いていたそう。
「だから、若い頃はもっぱら徳川家康の目線で歩いていたのかもしれませんね」
と微笑む先生。
さて、まずは関ヶ原の発端となる豊臣家のお話から。
「豊臣秀吉が亡くなった時、秀頼10代後半であれば、
あのまま豊臣家の天下であっただろうが、
6歳が故に関ヶ原合戦の伏線となってしまった」
そこでよく言われる「秀頼は秀吉の実子ではないんじゃないか説」
「猜疑心の強い秀吉が、もし秀頼が実子ではないとしたら、
あれほど秀頼を可愛がっていたであろうか?というのが
その仮説に対する疑問です。だから私は秀頼は秀吉の実子
ということで良いのではないかと思っています。
(ちなみにこの実子問題。九州大学で戦国時代史をご専門とする
教授同士でも意見が割れてしまうほどの深い案件なんだそうです)
秀吉が実子でないという説のひとつに、秀吉は背が低く、
秀頼は背が高かったということ。
今回は一般市民向けのトークショーということで、
先生も柔らかい切り口で秀吉のお話を展開されていきます。

「実は10年ほど前になるのですが…静岡の小学生が、
秀吉が着用していたものと言い伝えられている陣羽織の型紙をおこし、
紙製の陣羽織を作成。それを150cmから170cmの
身長が違う男性複数人に羽織ってもらい、
どの身長の人が陣羽織が似合うかを調べたんだそうです。
すると結果154cmの男性が似合う陣羽織だったことがわかったんです。
これどういうことかと言いますと…
つまり、秀吉は背が低かったということなんです。
これ、学芸員2人が研究により算出した数値と近いんですよ!
となると…秀頼が背が高いのはどう説明するかというとですね…
まぁ、母親・淀殿(茶々)が背の高い人だったので、
妥当な身長ではないかと思うんですよね」

という先生。
ここからは秀吉の役職についての話も。
時代をさかのぼり…全国の藤をまとめたのは源頼朝。
以来、平氏と源氏が交代して政権を握ります。
で、秀吉は征夷大将軍にはなれなかったが、
関白の席が空いていたことから、その席におさまる訳ですね。
そして本来、関白から太閤となれば
表より身を引くのが常なのですが…秀吉は例外となります。
さて、足利義満は10歳で将軍となり、
細川頼之が義満を補佐した前例があります。
石田三成はこの前例を元にして豊臣秀頼と
五奉行との関係をそれにならいたいと考えた訳です。
しかし徳川家康は「天下は力ある者のまわりもち」と異を唱えます。
つまり「今なお世は乱れている。
ならば力あるものに天下を任せるのが良いのではないか?」
ということなのです。
家康は、清洲会議で目の前で秀吉が三法師を抱いて
天下を取るところを見ているというのもこれにつながるかと思います。
さらに、石田三成は、秀吉に恩義を感じている人たちで
家康を討ちたいと考え、徳川家康は、6歳の秀頼が
10歳ともなれば力だけではねじ伏せられなくなると考えた訳です。
そこで関ヶ原の戦いで決着をつけるという流れになるんですね。
そして、今回の解説の後のゲストがゲストということもあり、話題は直江状に。
その前に直江兼続についての解説が先生より入ります。
「通常、家老というのは主君の指示なしでは
行動できないんですよね。ただ、直江兼続なんですが…
他の家老とは違うところがあるんですよ。
それはね。執政というもので、主君と共同で業務を行う、
現在のいわゆる共同経営者のような立場だったということです」
そして本題の直江状については…
「江戸時代などを経て、過激な言葉遣いにはなっていて、
よもやすると偽書であるとも言われているが、
やはり直江状自体は存在していたと考えています。
それは家康のおごった行動について
理路整然と書き綴ってただけであるが、
家康はそれを挑発と受けて、
結果、会津攻めへとつながったのではないかと」とのこと。
そして最後に先生の面白い見解で
今回のテーマが締めくくられることに…
「尾張を防衛ラインと考えていたのなら、なぜ清洲城を押さえておかなかったのか?と思いますね。川を戦略に使えば、自然の防御壁となる訳で…それがあれば家康は封じ込められたかもしれません。あとは松尾山に置くつもりでいた毛利輝元が出陣していたら西軍の風向きは変わっていたかもしれませんね。とはいえ、敗軍の証、兵は語らずとも言いますね」とにこやかに語る小和田哲男先生。あっという間の1時間30分のトークでした。


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