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「横浜美術館:柳宗理展」 [展覧会のはなし]

8月末に出かけた「柳宗理展」ですが…
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2009-08-29-2

ようやく書き終わりました。
すいません。1ヶ月半前の話を…(苦笑)

ちょうど欲しかった本が手に入り…
やはりそちらの方にも柳先生のお話があったので
ぜひ参考にしたいと思って…

坂倉準三デザイン本.jpg
※先日訪れた「坂倉準三展」
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2009-09-11
こちらとは別会場のパナソニック電工汐留ミュージアムで開催された
住宅、家具、デザインに重点を置いた展覧会の図録。
これは鎌倉では販売されてなかったため、書店で取り寄せました(苦笑)

それに加えて…今回の展覧会は図録ではなくデザインブックのような
写真が大胆に掲載されている本でしたので…
柳宗理1.jpg
柳宗理2.jpg
正直に言うと…

「もうどこから書いたらいいのか」というのが本音で(苦笑)

本業の仕事は忙しくなるわ、おまけに文章まとまらないわで…

「途中、やや自己嫌悪に(爆)」

ま、そんな時もある(;´▽`A``

まあ、折にふれて柳先生関連のことはちょこちょこ書いてますね…
しかし、ほんの数年前までは全く知りませんでした。
お恥ずかしいことに…


きっかけは当時、まだ名古屋市営地下鉄で
現役で活躍していたキオスクボックスが
柳先生のデザインと知人から教えてもらったこと。
そして、ちょうどタイミング良くカーサ・ブルータスから
特別編集本が出版されており、早速お買い上げして読んだのです。
※ちなみにそのキオスクボックスがなくなった時の話は書いています。
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2005-07-16

いや…驚きました。先生の生み出した優れたプロダクトデザインの数々に…

柳宗理5.jpg
早くお湯が沸くヤカンに…積み重ねることができるモダンな花器。

柳宗理6.jpg
曲線が美しいバス停のシェルター
(その曲線の美しさから通称「カモメシェルター」とも呼ばれる)

柳宗理7.jpg
そして「日本の生活に合わせた椅子を…」
という考えから生まれた「バタフライ・スツール」

柳宗理3.jpg
戦後…
シェルチェアなどを作ったことでおなじみの
イームズのもとを訪ねた際に、成形合板と出会ったことで
そこから塩化ビニールを手にして無意識に動かすことで
結果できた形がこのスツールの形だったそう。

成形合板の研究をしていた方をも巻き込み、
数年あまりの歳月を経て
1954年に天童木工が開発に乗り出し
そして1957年のミラノ・トリエンナーレに出品された
このスツールは、金賞を受賞。
世界に柳宗理とこのバタフライ・スツールが知られることとなるのです。

現在、このスツールは、ルーブル美術館など、
世界中の美術館にパーマネントコレクション(永久所蔵品)として
収蔵されているんです。

さて…そんな柳先生はどうやってこういう道を進まれたのか?

これがまた興味深かったですね。

柳先生のお父様は…
民藝にお詳しい方ならご存知、「柳宗悦」
そう、日本民芸館を作られたお方。
(以前、私が観に出かけたアーツ&クラフツでも登場しておりましたね)
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2009-07-12

そんなお父様の元で育った柳先生。
バーナード・リーチ
http://www.mingeikan.or.jp/html/leach-bernard.html
浜田庄司
http://www.mingeikan.or.jp/html/hamada-shouji.html
など、蒼々たる作家の作品が家の中にたくさんあったのだとか。
そういう環境もあってか…
先生も後に
「僕の直感力が育まれたのはそういった環境からかも」
と語られています。

しかし…思春期といえば多感な頃。
10代の柳先生は、お父様への反発心もあってか
最初、夢中になったのは純粋美術だったのだそう。
そして進学したのは東京美術学校(現在の東京藝術大学)の油絵科。
しかし入学してまもなく、現代デザイン思想発祥の地とも呼ばれる
ドイツのバウハウスで学んだ日本人の中のひとり
水谷武彦先生の講義を聴いた柳先生。
「現代は、機械と科学の時代」
「これからの美術あるいはデザインというのもは
 社会のため、用途のためにあるべきで
 社会との関係性の中で生きていくことが重要」
民藝にも通じる部分はあれど、
「機械と科学を肯定する上での話」に
当時、話を聴いた柳先生はとても感銘を受けたのだそう。

それからしばらくして…先生が出会ったのが

「ル・コルビュジエが書いた著書の数々」

そう…坂倉準三に続き…ここでも出ました。

ル・コルビュジエ。

柳先生が最初に読んだコルビュジエの著書は
前田國男が訳した「今日の装飾美術」だったそう。
(装飾のないところに真の装飾があることを述べた、
 機械時代の幕開けを感じさせる内容だったそう)
で、これを読んだ柳先生
「他の著書を原書で読みたい」
そこからアテネ・フランセ(注:東京都千代田区にある外国語学校)
に通ってフランス語を必死で勉強したのだとか。

面白いですよね…それから大学を卒業した柳先生は
ル・コルビュジエの協力者でもあるシャルロット・ペリアンと共に
各地を視察するのに同行。通訳としても活躍されるのですから…
あ、これについては「坂倉準三展」でも少し触れましたね。
http://yukiwochannel.blog.so-net.ne.jp/2009-09-11
※記事の中盤に書いております。

当時の時代としては…やや戦争の影がちらつく
不安定な世の中ではありました。
というのも…
日米開戦を控え、外貨獲得のために何かしなくてはと
策を練っていた当時の日本政府。
「国内にある素材を利用した輸出用の工芸品の開発をしてみてはどうか?」
そこで…当時、商工省の関係機関に在籍していた柳先生は
ル・コルビュジエの研究所にいたことのある坂倉準三氏に相談。
その結果…
1940(昭和15)年に日本の商工省(現在の経済産業省)が
輸出工芸指導の装飾美術顧問としてフランスから招聘されたのが

「シャルロット・ペリアン」

機械と科学が主流となりつつある時代の中で…
最先端のデザインを発信する
そんなペリアン女史が度々選んだものが…なんと

「民藝」

そう。柳先生があれほど反発心を抱いた民藝。

なぜか?

そもそも民藝とは…
一般生活に実際に使われる目的で制作されているのです。
それに加えて、吟味された材料と熟練の技術によって
作りあげられているもの。
さらに言えば…
使い勝手が良く、無駄のないデザインの美しさも
兼ね備えた、優れたもの訳で素朴な機能性が要求される。

ましてや異国のデザイナーが支持したことで
身近にあった「民藝」がいかに優れたものであるか
あらためて気がついた柳先生。

そしてペリアン女史の7ヶ月におよぶ工芸指導を行った成果を
展覧会としてまとめあげたのが
「選択・伝統・想像展」
前記の通り、戦争が間近に迫ったこの当時。
なんと、くぎ1本すら使えない材料に貧窮した状況。
それでも、ペリアン女史は、東北の藁、そして藁靴の技術を応用し、
敷物やカーペットを制作。
竹の弾力性を活かし、椅子やベッドなどをデザイン。
優秀な材料が自由に使える今日。
柳先生は、当時を振り返り
「これらのデザインはもはや姿を消しはしたけれども
 私たちが学んだことはデザインするその態度や方法」
とお話しています。
というのも、ペリアン女史は、
製図板の前にかがみこんでデザインを組み立てるスタイルではなく、
工場、職人の工房、そして材料の現場など…
なぜならそういった場所で、材料や制作方法について十分に討論し
さらにはその品物を自身で試してみながらデザインを組み立てるのだそう。
それは彼女の考えである
「奇麗な図面は実際の生活とは何の関係もない。
 技術と材料から離れた考案というものは何にもならない」
というところから。
こうした考え方には、柳先生も相当影響されたのではと思われます。
そして、そういった考えを基礎として
自らもデザインに打ち込もうとしていたことでしょう。

しかし、無情にも、戦争の時代がやってくるのです。

坂倉準三建築事務所の一員となっていた柳先生は、
陸軍報道部の一員としてフィリピンへと向かうことに…
「いつ死ぬかわからない。どうせ死ぬのならコルビュジエと一緒に死のう」
そう考えた柳先生は、「輝く都市」の原書を戦地に持っていったのだそう。
リュックに入れて、最初は肌身離さず持っていたのですが…
最後は重い原書の本を持ち歩くことができないくらい疲労困憊になり
結果、ジャングルの地面に穴を掘って、原書を埋めたのだそう。

戦争体験した人の数だけ、ドラマがあるのではないかと
最近、しみじみ思います。

そして終戦を迎えた日本。
柳先生は無事に祖国の日本の土を踏み、
まだまだ物資の不足する東京で、工業デザインにとりかかります。
1952年(昭和27年)の毎日新聞社主催の第一回工業デザインコンクールで
第一席に入選したこともあり、柳デザイン研究会を設立。

そして柳先生の活躍が始まります。
それはたぶん、先生のデザインの姿勢が
芯の通った、揺るぎないものだからこそだと私は思います。
現在の消費社会にありながら、自らのデザインを練り上げる思考と
鋭い観察眼、そして何より、モノを使う立場に立った、
「人の手になじむもの」を追求するモノ作り魂。

そんな先生のデザインの姿勢を本や雑誌などで
折に触れて感じていた私は…

柳宗理8.jpg
柳宗理4.jpg
このような柳先生の手仕事が感じられる
その数々の石膏の模型と、その完成品である商品と共に
展示されている会場内で
ひとつ、またひとつとじっくり見比べて観た時に
私は本当に胸が熱くなりました。

さらに胸を打たれたのが、会場内で映し出されていた
柳デザインのキッチン用品ができるまでの映像。
小さい町工場で働く、熟練した技術を持つ方々が
時に溶接で、時に研磨で…
柳デザインの美しいラインを維持するために
いぶし銀の両手から、ひとつ、ひとつ
正確に、そして丁寧に1つの工程を仕上げる姿に

「ああ、素晴らしいデザイナーの作品が
 また素晴らしい技術者の手によって守られている」

そう思うと

「これからも頑張っていただきたい」と思わずにはいられません。

いやはや、とても良い展覧会でした。

長文の記事を最後まで読んでくださった皆様に感謝、感謝です。

※参考書籍
(1)カーサブルータス特別編集
「日本が誇るプロダクトデザイナー、柳宗理に会いませんか?」
(2003年6月発行分 ※現在では追加情報を含む改訂版が発売中)
(2)建築家坂倉準三 モダニズムを住む・住宅、家具、デザイン
(1962年8月号『デザイン』「日本の近代デザイン運動史:ペリアンのこと」再録分)

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whitered

詳しい報告を読ませていただき、勉強になりました。ユキヲさんの探究心に敬服いたします。若き日の柳宗理さん、お父さんの業績の真の価値がまだ分からなかったのですね。たぶん、出入りされていた芸術家を含め、個性的な方々だったでしょうから、子どもの眼からは、不遜にも思えたのでしょうね。そして、自分の信じる方向からの回り道。フランス語を学んだり、戦争の中で連合国側の著書を持ち歩いたり、不可抗力だったにせよ、大きな体験をされたのですね。最後には、お父さんの追及された道が、非常に価値のあるものだったと知るわけですね。うのみにして、父親を超えることができない人間が多い中で、さすが、この父にしてこの子ありと思えるエピソードでした。私などは、まだお父さんの時代の良さから抜け出せないでいますが。どうもご苦労様でした。
by whitered (2009-10-12 10:34) 

ユキヲ

>whiteredさんへ
nice&コメントありがとうございます。
長文の記事を読んでくださり、感謝、感謝です。
勉強は苦手なんですが…(笑)
最近、興味のあるデザイナーさんなどを調べていくと
実は自分が興味があったデザイナーさんとどこかで
つながっていたこと等々、そんな偶然が重なり
いろいろと関連した本を読んだりしているうちに
「じゃあ、これは?」というハテナに導かれ…
どんどんデザインと建築の茂みに入ってしまった
ような気もします(笑)
私は恥ずかしながら柳宗理先生から民藝を知ったのですが
いろいろと関連した本を読むうちに柳先生がお父様から
受けた影響は計り知れないなと、あらためて感じました。
以前に東京を訪れた際に日本民芸館も立ち寄りましたが…
久しぶりにまた出かけてみたくなりました。


by ユキヲ (2009-10-12 12:26) 

四代目青柳畳店

初めまして。

大変勉強になりました。
これからも、ご教授願います。
by 四代目青柳畳店 (2009-10-22 18:29) 

ユキヲ

>四代目青柳畳店さんへ
nice&コメントありがとうございます。
好きなジャンルのことになると
どんどん掘り下げて、エンドレスになることしばしば(失笑)
たまにしかこうした長文記事はかけませんが…
またお気軽にお立ち寄りください。
by ユキヲ (2009-10-23 00:59) 

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